作品 仕事

 編著書

唯一無二のギターと歌唱

孤高の音楽家、長谷川きよしの世界

「別れのサンバ 長谷川きよし 歌と人生」

(長谷川きよし著、川井龍介監修、旬報社、2024/10/4)

 中学生のころから長谷川きよしさんの音楽に触れていらいファンになり、1990年代に音楽のコラムを書くようになってから長谷川さんと知り合い、以後個人的にも親交ができた長谷川さんに、これまでの人生と歌について語ってもらった。
 シンガーソングライターとして、ギタリストとして、唯一無二のスタイルをつらぬき、活動をつづてきた長谷川さんは、2歳の時に失明、ラジオから流れるさまざまな音楽を吸収する。やがてギターを手にして、クラシックからはじめ独自の弾き語りのスタイルを確立。十代で、シャンソニエ「銀巴里」のステージに立つなどプロ活動をはじめる。
 東大・安田講堂の事件があった1969年、若者のエネルギーが社会に満ち溢れていた時代。卓越したギターでガットギターをかき鳴らし歌った「別れのサンバ」で、鮮烈なデビューをはなつ。
 以後、オリジナルをはじめ、ブラジル音楽、シャンソンなどジャンルを超えた名曲を自らのスタイルにのせて表現。硬質だがしなやかな歌唱力で多くのファンをえる。
 一時は音楽を離れるが、1980年に浅川マキの援助で復帰、1998年には、フェビアン・レザ・パネ(ピアノ)、ヤヒロトモヒロ(パーカッション)、吉野弘志(ベース)と洗練されたアルバム「アコンテッシ」を発表。
 2011年からは京都を拠点に活動を続ける長谷川さんを京都に訪ね、インタビューをした結果をまとめた一冊。
 本書のなかで、長谷川さんが敬愛するミュージシャンのひとりとして、桑田佳祐さんの名を挙げたことから、桑田さんの知人を通して桑田さんに本を贈ったところ、桑田さんから長谷川さんと私のもとにお礼の手紙が届いた。

 船が語る

 死の灰を浴びた第五福龍丸の生涯

「数奇な航海 私は第五福龍丸」

(川井龍介著、旬報社、2022/8/10)

 1954年3月に太平洋のビキニ環礁でアメリカの水爆実験によって被爆した遠洋マグロ漁船、第五福龍丸。帰国後、忌み嫌われ一時は処分されそうになったが、改造されて東京水産大学の練習船として生まれ変わる。やがて廃船となり民間業者に払い下げられると、エンジンだけ引きはがされて、当時埋立地でありゴミ捨て場だった東京・夢の島の一角に捨てられ朽ち果てるのをまっていた。 
 しかし、あるときこの船が被爆した第五福龍丸だとわかり、核被害のシンボルとして保存運動が沸き起こり夢の島に第五福龍丸展示館ができて保存される。一方、一時は船体を離れたエンジンもめぐりめぐって展示館に収容される。こうした数奇な運命をたどった船の一生を追った書はこれまでほとんどなかった。
 核を作り人間や物を破壊し苦しめるのも人間なら、核の悲惨さを訴えようとするのも人間。そんな人間社会に翻弄された第五福龍丸がもし語ることができたら。第五福龍丸が主人公となり、紀伊半島で生まれ夢の島で永久保存されるという数奇な生涯を独白する異色のノンフィクション。

人はなぜ、切ない歌をきくのか

 ジャンルを超えた62曲  

「切ない歌がききたい」

(川井龍介著、旬報社、2020/4/1)

 なぜか、名曲には切ない歌がおおい。日常生活では切ない気持ちは避けたいのに、歌となるとなぜ切ない歌が好まれるのか。それは、あえて切ない歌に身を浸すことで、心が浄化されるからではないだろうか。
 別れ、時の流れ、望郷、青春、喪失……。ひと口に「切なさ」といっても、その理由はさまざまだ。複雑で説明するには一筋縄ではいかない。
 切ない歌をつくらせたらこの人の右に出る人はいないという伊勢正三作詞・作曲の「なごり雪」をはじめ、サザンオールスターズの「真夏の果実」、八代亜紀が歌う「五木の子守唄」、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」、カーペンターズの「青春の輝き」、シャンソンの「枯葉」など、時代もジャンルも超えた62の切ない歌に思いを馳せるエッセイ。

「大和コロニー」の英語版

「Yamato Colony: The Pioneers Who Brought Japan to Florida 」

(Ryusuke Kawai、University Press of Florida、2020/3/10)

(Translated by John Gregersen and Reiko Nishioka)

 2015年に出版した「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)の英語版としてアメリカで出版された。翻訳は、Morikami Museum and Japanese Gardens(モリカミ博物館・日本庭園)の元主任学芸員のJohn Gregersen(ジョン・グレガセン)氏と元教育部長のReiko Nishioka(ニシオカ・レイコ)氏のふたり。自ら買って出て翻訳し、出版先をあたってくれたところ、フロリダ州立大学の出版部門であるUniversity Press of Floridaが出版を引き受けた。
 モリカミ・ミュージアムの元となった土地を寄贈した、日本人移民の森上助次の生涯や大和コロニーのリーダーだった酒井醸など、植民についての日本側の事情や歴史的背景については、アメリカであまり知られていなかった。それが翻訳出版によってアメリカ人に理解してもらえることになった。
 「The 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award from the
Florida Historical Society」を受賞。

戦争、差別、アイデンティティの危機に向き合う

日系アメリカ人文学の金字塔、新訳

「ノーノー・ボーイ」

(ジョン・オカダ著、川井龍介訳、旬報社、2016/12/14)

 日系アメリカ人文学の金字塔ともいわれる作品。全米で長いあいだ読み継がれている。日本では1979年に最初の翻訳が出版されるが絶版となっていた。アメリカ取材を重ねるなどして新訳として刊行。あとがきで小説の背景や出版に至る経緯などを詳しく解説。

 ジョン・オカダ(John Okada)
 広島県にルーツを持つ日系アメリカ人二世。1923年9月23日シアトル生まれ。42年アイダホ州ミニドカの収容所に入る。志願後、陸軍情報機関に所属、太平洋戦線へ。戦後ワシントン大学などで学ぶ。57年に小説「ノーノー・ボーイ」を発表。1971年に死亡。

 概要と翻訳に至る経緯

 1941年12月、日本軍がハワイのパールハーバーを奇襲したその瞬間から日本人だけでなく、海外にいる日本人・日系人の運命も大きく変わる。アメリカの日系人作家ジョン・オカダが唯一残した「ノーノー・ボーイ」は、この運命に苦しめられて戦後を迎えた日系二世の主人公イチロー・ヤマダの心の叫びをつづった小説。
 日系アメリカ人による初めての本格的な長編小説として高い評価を得て、1976年の復刊以来アメリカで読み継がれ累計で十数万部が出版された。しかし実は、この小説は1957年に出版された当時はほとんど評価されなかった。
 主人公イチローは、戦時中に徴兵を拒否し逮捕され刑務所に入る。物語は、終戦後刑務所から出て故郷に戻ったイチローの姿を追う。従軍して帰還した同じ二世や、日本の勝利を信じて疑わない母親との確執、戦地での傷がもとで死にゆく親友への思いなどを通して、イチローは自分のアイデンティティはなにかと苦しむ。
 アメリカの日系二世は、多くが戦地に赴き勇敢に戦い多大な犠牲を払った、という戦争の記憶がまだ生々しかった出版当時、戦争や差別へ疑義を感じさせる著者の筆致は、日系社会にもアメリカ人にも受け入れられなかったようだ。
 しかし、1970年代に公民権運動が高まりマイノリティーの自覚も深まってきたなかでアジア系アメリカ人の若者が忘れられていたこの本を“発見”し、「これこそがおれたちの文学だ、アメリカの文学は白人だけのものではない」と、感動しボランティアで本を復刊させる。
 すると話題になりその後は小説の舞台であるシアトルにあるワシントン大学出版部が引き継いで出版してきた。残念ながら、この復刊の数年前にジョン・オカダは心臓発作のため急死した。彼は自分の作品が世に評価されることを知ることなく世を去った。
 日本では、原作を読み感動した中山容氏(片桐ユズル氏とボブ・ディラン全詩集などの訳がある)の訳で1979年に晶文社より出版され、いくつか版を重ねたが残念ながら絶版となった。私は、1990年ごろたまたまこの本を古本屋で見つけて読み、主人公が「自分何者で、どう生きたらいいのか」というアイデンティティを問う姿勢と、戦争や差別に対する著者の姿勢に共感し、以来作者と作品についてノンフィクションの題材として取材してきた。
 しかし、日本語版が絶版になったことから直接版元や著者の遺族らと交渉し、日本の出版社に話を持ち掛けた。翻訳にあたっては、アメリカ、日本でこの本と作家に詳しい専門家や翻訳家の力を借りながらようやく完訳にこぎ着けた。
 アメリカの移民政策をはじめ社会的なマイノリティーに対して不寛容な風潮が国際的にも国内的にも危惧されるなか、アメリカと日本に心を引き裂かれるイチローの苦悩は、今日のわれわれの問題としても横たわっている。 

書評・朝日新聞 https://book.asahi.com/article/11585927

20世紀初頭フロリダで計画された日本人村の顛末 知られざる移民史

最後に残ったひとりの農民、ジョージ・モリカミが残したもの  

「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」

(川井龍介著、旬報社、2015/7/25)

 ビーチリゾートが広がるアメリカ・フロリダ州南部に100年以上前、日本人村(コロニー)を作ろうとした試みがあった。コロニーは短命に終わったが、失恋の痛手がもとで渡米し最後までコロニーの現地に残った男が生前寄贈した土地がもとで、のちに広大な日本庭園が誕生した。
 アメリカのフロリダ開発にともない入植した明治の日本の男たちの夢と挫折。大多数のアメリカ移民が出稼ぎ的な労働者としてだったのに対して、日本からの資本をもとにコロニーをつくろうとした移民は稀である。移民史でも語られることがなかった秘話を度重なる現地取材と国内取材をもとにまとめた。
 
 概要と出版に至る経緯

 1986年、アメリカの東海岸を南北に走るハイウェイ95号を走っているとき、南フロリダで「Yamato Rd」という標識を目にした。その後これが「大和」を意味し、かつて近くには大和コロニーという“日本人村”があったことを知った。
調べてみると、入植という冒険の背景には、当時の大富豪H・フラグラーによって進められたキーウェストまでの鉄道敷設とリゾート開発があった。その一端で日本から来た明治の男たちは南フロリダで農場経営をはじめたのだった。   
 コロニーは戦前に消滅するが、最後まで残った森上助次という“農民”が、所有する土地を地元に寄贈、これがもとで本格的な「モリカミ」という日本庭園と博物館が現地に誕生した。トランプ大統領の別荘のあるパームビーチ郡に位置するこの庭園には、今も多くのアメリカ人が訪れる。
 一連の流れを追うと、歴史のダイナミズムと、異国の地で生き抜いてきた名もない日本人の個人的な意志とが交錯する、ユニークな物語が見えてきた。
 大和コロニーは、フロリダの鉄道開発とともに誕生した。コロニーの農作物は、鉄道によって輸送された。日本人コロニーが誕生し、当時フロリダ・イースト・コースト鉄道沿線には「Yamato」駅がつくられた。

♪わたしがあなたに惚れたのは、ちょうど十九の春でした

「十九の春」という歌、謎のルーツを追ってみると・・・

「『十九の春』を探して ~うたに刻まれたもう一つの戦後」

(川井龍介著、講談社、2007/4/26)

 一般に沖縄の俗謡などと言われている「十九の春」は、実は作者不詳である。この歌のルーツを探るなかで、奄美群島、沖縄、八重山諸島など日本の南の地方の戦前から戦後の、知られざるさまざまな物語に出合う。ルーツ探しの旅をノンフィクションとしてまとめた。 
(2007年講談社ノンフィクション賞最終選考候補作)
                            
 概要と出版に至る経緯
 
「十九の春」という歌は1975(昭和50)年に演歌の大御所で、今は亡き田端義夫が大ヒットさせたことで全国的に知られるようになった。
 
  ♪ 私があなたにほれたのは
    ちょうど十九の春でした
    いまさら離縁というならば
    もとの十九にしておくれ

 こう始まる「十九の春」は、「沖縄俗謡」とか「沖縄民謡」と言われてきた。しかし、これは事実に反する。このように誤解されているこの歌のルーツはいったい何のか、それをロードムービー的にまとめた。
 きっかけは、奄美大島と接した加計呂麻島という小さな島で生まれ育った朝崎郁恵という、奄美民謡の唄者との出会いだった。音楽コラムを書いていたある時、彼女の歌う「十九の春」を聴いた。しばらくして彼女から「この歌は、戦時中に私の父が作ったうたと同じです」と、聞かされる。それが、1943(昭和18)年に歌詞がつくられた「嘉義丸のうた」だった。
 郁恵の父親、朝崎辰恕が、同年、奄美大島沖でアメリカの潜水艦に撃沈された貨客船、嘉義丸の犠牲者の遺族の慰みにと歌ったことわかった。そこで、ルーツ探しに加計呂麻島や奄美大島へ出かけた。すると、「『十九の春』の元歌は与論小唄だ」という話を耳にしたので、次に与論島へ向かう。確かに聴いてみると、歌詞こそ違うがメロディーは「十九の春」とまったく同じだ。
 与論島は、明治時代に大きな飢饉と災害に襲われ、島民の一部が長崎県の島原半島の突端にある口之津というところへ集団移住する。ここには三池炭鉱の石炭を船で外へ運ぶ時の積み出し中継基地が作られていた。移住した与論島の人は、得意とする三味線と歌で、当時東京からはじまって全国的に歌われた「ラッパ節」をアレンジ、これが与論島に持ち帰られのちに「与論小唄」になったのではないかという。
 さらに、「十九の春」と同じメロディーで歌詞の違う歌は、沖縄本島にも存在した。「ジュリグヮー小唄」や「吉原小唄」として、遊女たちの間で歌われていた。このほか、石垣島では白保地区で白保小唄として歌われ、また失恋歌という名称で親しまれていた小島もあった。西表島では、戦時中に日本軍の軍人が同種の歌を口ずさんでいた。同じく戦時中、兵庫県尼崎の紡績工場に働きに来ていた沖縄出身の若い女性たちが、歌っていたこともわかった。
 沖縄、奄美群島、八重山などで、メロディーが同じだが歌詞が違う歌がいくつも存在していてたことはわかった。が、どれが始まりなのかは、残念ながら不明のまま終わる。ただ、このメロディーが戦前から戦後を通して、様々な形で生活の中での慰みや悲しみを表わすものだったということを、“旅”の過程で知る。

「122対0」の大敗から再生に向かう僻地の高校野球部の奮闘

 が、やがて高校はなくなった

「122対0の青春」

(川井龍介著、講談社文庫、2004/5/14)

 1998年夏の高校野球青森大会で、「122対0」という前代未聞のスコアのゲームがあった。その試合のドキュメントと、なぜこのような結果になったのか。背後の事情を取材していくと、過疎や地域間格差の問題がみえてくる。
 2001年に出版の「0対122 けっぱれ!深浦高校野球部」(講談社)に加筆、文庫化した。

 概要と出版に至る経緯

 少子高齢化の進行のなかで、地域の学校の統廃合問題は深刻さを増している。さらに都市部の学校と僻地の学校との地域間格差が広がっている。
 1998年全国高校野球の青森大会で、郡部の深浦高校と私立名門の東奥義塾が対戦、「122対0」(7回コールド)というスコアで深浦は大敗した。なぜこうした試合になったのか、その1年半後から取材を開始し、問題の試合を検証、そして大敗の苦汁を味わいながらも、徐々に力をつけて行った深浦ナインのその後を追った。その過程で見えてきたのは、過疎と地域間格差の問題だった。
 ふだんほとんど取り上げられることのない、地方の弱小高校の野球部の青春群像を描きながら、地域の問題を合わせて描き出す。
            
 本書出版後もおよそ20年にわたって取材を続ける。生徒数の減少、分校化のなかでも一時は実力をつけた同校だが、行政、教育委員会の積極的な支援策もないまま部員は1人となり、2018年夏は5校連合でなんとか大会出場を果たす。その過程は「Journalism 2018年8月号」(朝日新聞出版)で「『122対0』が残したもの生徒減、格差克服の方策を」として明らかにした。
 その後2019年度で野球部はなくなり2023年度をもって学校も閉校となった。

家族は被災しても現場へ向かう

阪神淡路大震災、神戸市消防局署員活動の記録

「阪神淡路大震災 消防隊員死闘の記」

(神戸市消防局「雪」編集部と川井龍介の共著、旬報社、2012/2/25)

1995年9月に出版された「阪神大震災 消防隊員死闘の記―もっと多くのいのちを救いたかった」(旬報社)を、東日本大震災後に復刊したもの。

 1995年の阪神淡路大震災の直後に、神戸市消防局の広報誌では、消防隊員の手記をまとめて特集した。目の前に助けを求めている人がいるのに水が出ない、機材がないなどの理由で、撤退するしかなかった隊員。自宅や家族が被災しても、現場に向かう隊員。被災者に、消防のせいで家が焼失したと非難された隊員。
 そうした隊員たちの無念の思いと無力感が伝わる手記の存在を知り、書籍化を同消防局と出版社に提案。神戸市消防局の全署をまわり、手記を書いた隊員一人ひとりに会い、手記を再構成、編集し、解説を加えて出版した。

家族は被災しても現場へ向かう

東日本大震災、南三陸などの消防隊員活動の記録

「東日本大震災 消防隊員死闘の記」

(南三陸消防署、亘理消防署、神戸市消防局、川井龍介共著、旬報社、2012/2/25)

 阪神淡路大震災の時、神戸市消防局は、全国の消防から援助を受けた。その時の恩に報いるために、東日本大震災が起きた時、いち早く応援体制をとり、現地へ向かった。
 そこで宮城県の南三陸消防と亘理消防に協力して、救援活動などにあたった。神戸市消防局ではその時の手記を集めることになったが、南三陸、亘理両消防からも手記を寄せてもらいまとめた。
 奇しくも私と出版社では、阪神淡路大震災の手記の復刊を計画しているときだったこともあり、東日本大震災の手記を記録として残すべきと考え、関係消防に取材をし、関係者の協力のもとに出版した。南三陸では、多くの消防隊員が津波で命を落とした。同僚の死を間近にしながら、また、家族を失いながら奮闘した署員の姿を通して、阪神淡路同様、手記は公の仕事の意味を考えさせる。

伝えることは、キャッチボールと同じ

独りよがりに陥らない、伝わる文章を書くポイント 

「伝えるための教科書」

(川井龍介著、岩波ジュニア新書、2015/1/21)

 文章を書く上で、もっとも大切なことは、ごく一部の例を除いて、相手に事実や気持ちをできるだけ正確に伝えることである。また、教育現場(学校)とちがって実社会では、正しい文章を書くことだけではなく相手ができるだけ理解しやすいような配慮も必要になる。一読して理解できなければ、読まれない文書はたくさんある。
 こうしたことを前提に、相手に伝わるための文章作りのポイントを示す。また、説明や依頼など、作成する文書の性格の違いによって、どのように表すか、実例をもとに解説する。
「社会を生きるための教科書」(岩波ジュニア新書)と同様、中学校入試から大学入試の問題で出題されてきたほか、模試や学習参考書で本書が引用されている。

税金、保険、年金、労働など、学校では教えない、社会人として生きていくための基本

「社会を生きるための教科書」

(川井龍介著、岩波ジュニア新書、2010/2/20)

 社会人となって生活する上で、知っておくべき基本的な社会制度やお金、情報などとの付き合い方についてまとめた。
 日本では会社員はほとんどの場合、所得税の確定申告をする必要がない。会社が納税面で手続きの面倒を見てくれるからだ。同じように、医療保険や年金についても会社任せのため、大人であってもこれらについて正しく理解していない人は多い。
 しかし、雇用が流動的になりさまざまな働き方もあるなかで、派遣とは、就業規則とは、失業保険とはなにかなど、知っておく必要がある。納税、保険、年金などについても同様。学校では教えない、実社会をタフに生き抜くための基本を解説する。

自由と自己管理は表裏一体

だれかに雇われるのとは違う、フリーランスという仕事と生き方

 「フリーランスで生きるということ」

(川井龍介著、ちくまプリマ―新書、2015/8/5)

 “サラリーマン”として同じ会社で終身雇用されるのが一般的だった時代とはかわり、いまは雇用のされ方も流動的で、また、ひとりの人間の人生も雇用されたり独立したりすることも珍しくなくなった。
 雇われていたころは、例えば所得税は源泉徴収され、社会保険や年金も給与から天引きされるなど、さまざまな社会的な制度上の義務や権利は雇い主が肩代わりしてくれた。しかし独立する、つまりフリーランスとなれば、すべて自分で行わなければならい。
 面倒ではあるが、自分のことはすべて自分で決められるのもフリーランス。自分のボスは自分。自己管理と自由は表裏一体なのがフリーランス。これに向いている人もいれば向いていない人もいる。フリーランスで生きていくとはどういうことか、社会制度上の問題から心構えまでを自らの経験からまとめた。

避けられなかった事故 問われた介護現場の責任

「あなたならどうする?」

 (介護老人保健施設・樹の丘 損害賠償訴訟・弁護団著、川井龍介編集、川崎医療生活協同組合、2025/11/1) 

 ある介護施設で入所者が転倒・転落事故でなくなった。事故は避けられたのか、事故後の対応は適切だったのか。裁判で明らかになった介護現場の現状と事故の真実。そして認められた介護施設の裁量権。
全国的に介護施設で転倒事故が目立ってきているなか、事故の責任をどうとらえるのか。介護現場の実態と責任を裁判をとおして深く考察する。

 おもな記事

Web連載・寄稿
・ディカバー・ニッケイ記事・連載一覧(川井龍介)
 (「シアトル 宇和島屋物語」、「一世の記録を拾い集めた男 加藤新   一の足跡をたどって」など)
・JBpress記事一覧(川井龍介)
・「広がる地方への高校留学は正解か」(サンデー毎日、毎日新聞出版 2023.9.17)
・「『122対0』が残したもの」(Journalism、朝日新聞社ジャーナリスト学校  2018年8月号)